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レポート

アーティストトークレポート(小野耕石、児玉麻緒)

7月29日(日)に2回目のアーティストトークが、横浜美術館にて開催されました。当日の様子をレポートとしてお伝えします!

※なお7月14日に行われました、1回目のアーティストトーク(水野勝規、湯浅克俊)のレポート記事はコチラからご覧いただけます。

登壇アーティストはこちらのお二方です。

小野 耕石(おの こうせき)
1979年岡山県生まれ。2004年東京造形大学美術学科絵画専攻版表現コース卒業。2006年東京藝術大学大学院絵画専攻版画研究室修了。近年の主な個展に「小野耕石展」(養清堂画廊、2017年)、「波絵」(東京パブリッシングハウス、2017年)、「Inducer」(ギャラリーあしやシューレ、2017年)など。横浜美術館市民のアトリエ版画インストラクター(2006-2008年)

児玉 麻緒(こだま あさお)
1982年東京都生まれ。2008年多摩美術大学絵画科油画専攻卒業。2010年多摩美術大学大学院絵画専攻油画研究領域修了。近年の主な個展に「HANABANA」(座・高円寺、2013年)、「projectN65 児玉麻緒」(東京オペラシティアートギャラリー、2016年)、「PLANT」(ANAインターコンチネンタルホテル東京、2017年)など。

 


第1回目と同様、前半はアーティストがこれまでの創作活動を自ら紹介するレクチャーからスタートしました。

 自らを「あまのじゃく」と称する小野氏は、美術大学で版画の研究室に入りながらも「版画とは何か」と疑い、「版画=平面」「大きさに制限がある」という既成概念を打ち破る作品づくりに挑みました。支持体は紙ではあるけれど、同じ紙に何十版も刷り重ねてゆくと紙自体の「ムラ」が表情として現れてくることに着目し、立体的で、かつエディションのない作品を制作。さらにそれを複数組み合わせることで、際限なく拡大する作品を発表しています。

 実際、作品は20cm×40cmを最小単位とするピースの集合体なので、展示する場所によって縮小・拡大が自在であることが特徴の一つです。また、何十版も刷り重ね、柱のように盛り上がったインクは、画面からこぼれ落ちることも珍しくありません。こぼれ落ちたインクの塊などを集めて動物の頭蓋骨やセミの抜け殻などに移植した作品なども制作しています。

 「他人の作品から影響を受けたことはない」と語る小野氏。創作に影響を与えるのは自然や自分自身の作品であり、表現もその時々で変わるため、10年後に自分がどんな作品を作っているかは予測不可能だとか。立体的な作品は展示スタイルや光の当たる角度によって表情が変わるため、実際にどう見えるかを、展覧会場に置いて「実験」している状態だといいます。

児玉氏は、2014年に初めてジヴェルニーの「モネの庭」を訪れた時の印象を「素晴らしい!の一言に尽きます」と語ることからスタート。小さな種からさまざまな色が野放図に湧き出た空間、自然でありながら程よく手入れされた庭は自分の理想とする世界に近く「まとって帰りたい、持ち帰って自分の庭にしたい」と感じたそうです。
 また、パリのオランジュリー美術館では、天井から降り注ぐ自然光が雲に遮られた瞬間、絵の中の植物たちがうごめくように見え「絵は生きているんだ」と感じたそうです。

 もともとデザインの仕事に興味を持っていた児玉氏が絵画の魅力に目覚めたのは、大学4年生でフランスのアヴィニョン演劇祭を訪れたことがきっかけでした。自主参加の「オフ」に参加する舞踊グループの衣装に絵を描いたところ、自分の描いた絵が、ダンサーの動きだけでなく、踊る場所や観客の反応によって全く別のものに見えることに感動。当時は壁に掛けられた自分の絵を見るのが「恥ずかしい」と感じていたそうですが、この経験を通じて「絵が生きる場所はあるんだ」と考えるようになったそうです。

 現在は、北欧のテキスタイル会社のコレクションや、ホテルロビーでの個展などへ活動の場を広げています。絵を描くことは「種をまいてキャンヴァスの中で育てる感覚」であり、会期が迫っても「ちゃんと咲くまで模索する」と表現。「作品が生きる場所と生きる絵を目指して、これからも頑張っていきたいと思います」と、締めくくりました。


前半から相互に自由な発言を飛び交わす進行でしたが、後半は、改めて横浜美術館主任学芸員・松永真太郎を交えたフリートークとなりました。

松永 児玉さんは、名古屋市美術館で自分の作品をご覧になって「絵を独り立ちさせたような気分」と仰ってましたが、今回改めて横浜での展示をご覧になって、何か違いを感じますか。

児玉 まだお互いに緊張している感じです。

松永 小野さんはいかがですか。名古屋と横浜では展示空間が違いますし、いろんな作家の作品に囲まれるようにして自分の作品が置かれたのをご覧になり、感じるところがあればお願いします。

小野 ウォーホルやサム・フランシス、モネなどの作品が借景になってくれる感じで、僕の作品がよく見えますね(笑)。これまでは、「人はなぜ彼らの作品が好きなのだろう?」と思っていたのですが、今回改めて見てみると、周りの作品まで引き立ててくれる力を感じました。作品が持つ力というか、色が持つ力と言ってもいいかもしれません。いろんな作家の作品と一緒に展示されると、これまでとは違った見え方をしてくる作品もあることは、僕にとって新鮮な発見です。

松永 確かに、小野さんの作品が展示されている部屋は、それぞれキャラの濃い作品が並んでいますね。私自身、企画段階では、サム・フランシスと福田美蘭さんの作品の前に小野さんの作品を置くなんて、空間として成立するのだろうか、という不安がありました。実際にはとても充実した空間になったと思っています。

小野 やはり、雑味のない良い作品は影響し合えるのでしょう(笑)。

 

松永 お互いの作品に対する印象をお聞かせください。

小野 児玉さんの作品はタッチが強い印象があったので、「この人はモネには興味がないだろう」と思っていました。モネが好きなら、もっと柔らかな絵になると考えるのが普通ですから(笑)。でも、モネの庭に対する思い、つまり作品ではなく画家がインスピレーションを得た「実物」に対する思いは圧倒的なものがありますね。完成した作品よりも、それを触発するものに興味がある。そこから「キャンバスに種をまき、そこから芽吹いて植物が生え、花が咲く」と表現されるような、生命力に満ちた作品が生まれるのだと思います。モネとは表現方法が違うけれど、見ている方向は近い、という印象を受けました。

児玉 名古屋の会場で改めてモネの作品を観たのですが、「やっぱりすごいな」と思いました。対象物に対する執着心というか、パッションのその先で制作している気がします。掟破りの色使いも多いし、誤解を怖れずに言えばちょっとダサいのですが、表現したいものがあるから様々な状況を越えてすごくキレイに見えてしまう。
 私自身にもそんなところがあって、基本的にダサいのだけど、「絶対にやるんだ」という強い気持ちで乗り越えています。モネと同列に語るなんておこがましいのですが、今回、ちょっとだけ自分がモネを好きな理由がわかった気がします。技法的に優れているのは当然として、絵具の明るさが「光」という別の存在に変わっていく感じで、改めて「すごいんだな」と。

小野 モネの作品と児玉さんの作品で決定的に違うのは、児玉さんの作品の人間臭さだと思います。そこに児玉さんがいる、とうい感じだよね。

児玉 そうなんですよ。

小野 僕はモネに影響を受けて作品を作ったことはありません。人気作家ってちょっと嫌な感じだから、調べたこともなかった(笑)。でも今回、図録に載っているポール・ヘイズ・タッカー氏のモネに関する論文を読んで「面白い」と思って調べてみたところ、イメージが変わりましたね。株もやっていたし、自分の作品が欲しい人たちをアトリエに集めてその場でセリにかけるなど、「食えない男」のイメージが膨らんできた。調べているうちに、モネは自然崇拝者ではないことに気づいたんです。児玉さんは自然が好きでしょう?

児玉 好きです。

小野 だよね。だから自分のキャンヴァスからも植物を生やそうとするのだろうけど、モネはそうじゃない。自然じゃないんです。たとえば、霧に包まれた街の絵。あれ、どう考えても本物のシーンより美しく描いていますよね。そこに空き缶があったり、タイヤが流れ着いていても絶対に描かない。そういったものを排除して、美しい風景をさらに美しい色で描く。

児玉 それは、空き缶が見えないくらい感動しているからです。たとえば海に沈む夕日が素晴らしくキレイなときに、空き缶や浜辺に流れ着いたワカメは見えませんよね。空き缶に目がいったとしたら、その人は夕日に感動しているわけじゃない。

小野 僕は、モネはそれに気づいていながらあえて描かなかったのだと思います。初恋の思い出と同じで、人は、純化された美しい思い出だけを自分の記憶の中に残すものです。モネの絵も、純化されているからこそ、美術館にモネの作品を観に来たすべての人たちの「美しい思い出」とリンクして、共感を呼ぶのだと思います。

松永 児玉さんからご覧になって、小野さんの作品はいかがでしょう?

児玉 VOCA賞を受賞されたときに写真で拝見して「いけ好かない奴」と思っていましたが(笑)、今回、名古屋で実物の作品を観て、考え直しました。ガッツが見えたというか、すごく感動して。ガッツの部分では負けたくないと思っています。

小野 僕はガッツの部分では勝負したくないけど(笑)。児玉さんとはなんとなく共通点が見えてきました。

松永 そうですか? 私には到底…。

小野 表現というのは、基本的に他人と共有できないものです。他人とは認識が異なるので、解り合えなくて当然であり、それが衝動となって現れるのが「表現」なのだと思います。体を使って表現するとダンスや舞踏になり、言葉を使う人は文学やポエムになり、僕らは手を使ってものを作ることで表現している。その中で他人と共有できないものは、かなりのフェチズムを含んでいるわけです。作品には、自分が認識している以上に自分の感覚が出てしまうので、それを平気で表に出せるなんて、ある意味、異常なことかもしれません。

松永 児玉さんは、自然物を描くようになったのは大学に入ってからですか?

児玉 そうですね。絵の面白さというか、絵具と格闘することが楽しくなってきたのは浪人時代のことです。大学に入った当初は絵具が使えればなんでも良くて、モティーフにこだわりはありませんでした。花柄が好きだったので、自然と選んできてしまった感じです。

小野 僕は中学まではバドミントン部で活躍していたのですが、たまたま美術コースのある高校に推薦入学で入ってしまった。美術が面白いと思いはじめたのは高校3年くらいからかな。

児玉 美術って面白いですよね。いろんなことが繋がってくるので、日常生活まで楽しくなる。

小野 本当? 僕は苦しくなる一方だけど(笑)。

児玉 見るもの全てがモティーフになる気がして、興味のないものがなくなってくるし、最近は「アートっていいな」と思うようになりました。

小野 確かに。美術の魅力はいろんなところに隠れている気がします。美術をやるようになってから、スポーツからプログラミングまで、あらゆるジャンルに芸術性を感じるようになりました。

松永 お二人の自然体で自由奔放なお話であっという間に時間が過ぎてしまいました。アーティストの人となりを知るという意味では、この上なく良いトークだったと感じます。お二人の人柄を知った上で作品をご覧になると、また違った見え方があると思いますので、ぜひもう一度、会場を回ってみてください。

 

終わり

 

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