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レポート

レポート:林 道郎氏講演会「モネに潜在するもの、その複数性」

8月26日(日)にメインイベントとなる記念講演会が、横浜美術館レクチャーホールにて行われました。 近現代美術全般を射程に独自の視座から研究を重ねる林道郎氏による、モネの創作の独自性や現代との接点についての講話をご紹介します。

林 道郎(はやし みちお 美術史・美術批評、上智大学教授)
1959年北海道生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院美術史学科博士号取得。2003年より現職。主な著書に『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない』(全7巻、ART TRACE、2003-2009年)、『死者とともに生きる―ボードリヤール『象徴交換と死』を読み直す』(現代書館、2015年)、『静かに狂う眼差し―現代美術覚書』(水声社、2017年)、『ゆらぎ ブリジット・ライリーの絵画』(共著、torch press、2018年)など多数。

 

「モネに潜在するもの、その複数性」

 私はもともとセザンヌについて研究をしていたので、モネ、ピサロなど同世代の画家たちの動向もフォローはしてきましたが、実は、モネについて集中的に勉強をしたことはありません。ただ、晩年の《睡蓮》は、様々な場所で見るたびに強い、いや「強い」だけでは言い表せない、不思議な深み、多様性、言語化することが難しい「質」のようなものを感じてきました。今回はよい機会をいただいたので、モネの晩年、睡蓮を描いた作品群を中心にお話ししようと思います。

 今回のタイトルにある「複数性」という言葉。この言葉には、それこそ複数のニュアンスがあります。最も重要なのは、モネの絵画を見る私たちの身体、知覚が引き起こす知覚的あるいは情動的な反応の混交、多様性を示唆しています。一方で、モネをめぐっては、歴史的にも様々なことが言われてきました。平たく言うと、モネの絵、特に晩年の《睡蓮》に関しては、時代によって評価が180度変わったと言っても過言ではありません。歴史を通じて人々が見てきたモネは、「同じ画家のことを話しているのか?」と思えるほど違った存在なのです。いわば歴史を通じて複数のモネが存在してきたようなもので、「複数性」という言葉はそれも示唆しています。

 まず、カタログの諸論文や巻末の年表でも触れられていますが、モネが生きた時代をざっと振り返っておきましょう。モネは、のちに「印象派」と呼ばれるようになる画家集団の重要メンバーの1人です。彼以外では、ピサロ、ドガ、ルノワール、ベルト・モリゾなどが中心的人物として言及されます。グループの存在が社会に認知されるようになったのは、1874年のいわゆる「第1回印象派展」です。そこには様々な立場の画家、版画家、彫刻家など総勢30名が参加していました。当時の資料によると、正式には「画家、彫刻家、版画家などの共同出資会社」という味気ない名前の集団で、「印象派」という言葉は使われていません。会場となったのは、当時パリで写真家として名を馳せていたナダールが直前まで使用していたスタジオでした。

 「印象派」という言葉は、当時の評論家などが、からかいも含めて使ったものです。最初は否定的な意味を含んでいましたが、次第に通称として使われるようになります。作家たちも最初はその呼び名に違和感を覚えており、自ら積極的に名乗ることはありませんでした。けれど通称として流通するようになったため、半ば諦めて受け入れた、という経緯があります。最初の30人には美学上の共通点は見られず、むしろ共通していたのは、政治的、社会的な意図です。つまり、アカデミーが主催する公式のサロンから排除された若い作家たちが、共同戦線を張って発表する機会を作ったのです。作家たちが集団でオフィシャルな展示制度に異議を申し立て、自ら別の可能性を提示して見せたというのは比較しうる前例がなく、これが最初のことだと思われます。この後、19世紀終盤から20世紀初頭にかけての様々な前衛芸術運動の先鞭をつけたという意味で重要な展覧会であり、歴史的に意味のある展覧会だったといえるでしょう。

 「印象派展」は、74年から86年まで8回開かれるのですが。必ずしも毎回すべての人が参加したわけではありません。モネも何回か抜けているし、皆勤で出品していたのは、主要メンバーではピサロだけです。自覚的に反アカデミー的な立場を鮮明にし、画壇に登場した印象派グループ。その先進性は、今でも欧米の美術館の常設展を歩いてみると、すぐに納得できます。なぜなら、欧米の美術館は時代順に展示室が続いていきますが、印象派の部屋に入った瞬間、それまでとは明らかに異質な明るさに包まれることを、誰もが即座に感じるからです。とりわけモネ、ルノワール、ドガ、セザンヌ、ピサロなど、現在、印象派の中核とされる画家たちの作品では、それまでのアカデミックな作品を支配していた黒から暗いグレーなどの色調が排除され、自然の陰影すら青、紫、深い緑などの色調によって描かれる。しかも混色はできるだけ避けられ、筆触併置で画面全体が覆われています。パレット上で絵具を混ぜると色の彩度は落ちていきます。これを避けるためにはできるだけ混色をせず、強い色彩を併置することで、画面上ではなく私たちの知覚の中で混色に近い効果を発揮させる。その論理から、印象派の人たちは筆触併置を使うようになったのです。

 モネたちは、当時の視覚理論にも興味を持っていたようです。科学者が作った色相環についても学び、反対側にある色同士は「補色」として強め合うということを知っていました。けれど、それだけでは説明がつかないことがたくさんあります。モネの研究は、純粋な知覚のメカニズム中心主義的な解釈が成立してからは、そのような単純化した読解だけでは見過ごされてしまう部分を再検証する、そういう手続きの繰り返しでした。その最たる例が、今回のカタログにも寄稿しているポール・タッカーで、知覚還元主義的なモネ解釈に一石を投じようとしました。彼は「印象派は自然の知覚にだけ関心を持ったために『モチーフは何でもよかった』と思われがちだが、実はそうではなかった。モネが描いたモチーフには傾向があって、知覚以外の社会的な動機に結びつけられるのではないか」と主張しています。とりわけ90年代以降、モネはモチーフをルーアン大聖堂や積みわら、ポプラ、睡蓮、柳などに限定して集中して描き出しますが、タッカーは、著書『Monet in the ‘90s』においてそのことを「フランスの伝統を想起させるモチーフへの回帰」だとしています。パリの近代的な都市空間をモチーフにしていたモネからの、大きな転換だと。

 初期のモネはどうだったのでしょう。1870年代、第1回印象派展に出展された《キャプシーヌ大通り》は、当時のパリの新しい都市空間を描いた作品です。こういった作品群は1870年代に出現した近代的な雰囲気を持つパリの空間、すなわち新しさを象徴する空間への関心を表出しているのではないでしょうか。モネに限らず、印象派の画家たちは1860年代から、パリの新しい空間を次々と描いています。それも、ルーヴルからコンコルド広場、改装されたオペラ座、サン=ラザール駅など非常に狭いエリアに限定されており、同じパリでもその外へは出ません。このエリアこそ、実は1850〜60年代にかけて、ナポレオン3世の命を受けたオスマン男爵によってパリ改造が行われた地域の一つです。見通しのよい大通りは新しくパリに現れた空間であり、デパートやカフェもそうです。印象派の画家たちは、そういったモチーフを好んで描いたのです。たとえば、地域の中心にあったサン=ラザール駅。若い頃のモネはここを12枚くらい描いています。この鉄道が、モネが育ったル・アーブルまで開通したのが1847年。モネが最初にパリに出てきたのは18歳ですから、彼はこの鉄道を使ってパリに降りたわけです。

 余談ですが、サン=ラザール駅の12枚の作品は、のちの連作形式の予兆ともいえます。ただし、必ずしも同じ視点から描かれているわけではない。同じ地点から同じ構図で同じモチーフを違う時刻に延々と描いたルーアン大聖堂のようなシステマチックなところはサン=ラザール駅にはまだなく、あくまで90年代の連作の予兆のような位置付けで捉えるべきかと思います。

 モチーフや主題から見ると、モネには、近代性(モデルニテ)を体現した空間に深い関心を持っていた初期の時代と、次第にパリから離れて郊外のジヴェルニーに居を定め、睡蓮やポプラを繰り返し描いた時代があります。言ってみれば2人のモネがいた。もちろん、その間に彼は何度も旅を繰り返し、ヴェネチア、ロンドンなど様々な場所に短期間滞在しながら風景を捉えていますから、それらも1人と数えれば3人のモネがいたということになります。これは恣意的な分類ですから、解釈をさらに細分化することもできます。

 しかしながら、大まかに言って、パリをモチーフとした70年代と、固有名を持った場所を離れて身近な睡蓮ばかりを描いた晩年。この両極がモネのモチーフの幅の両端を決定している、といっていいと思います。実はパリからの離脱という問題は、モネだけの問題ではなく、1880年代の印象派の画家の何人かに共通することです。60〜70年代のパリを描いた印象派は、80年代に入るとパリを離れてモチーフも郊外の風景や静物が多くなります。たとえばルノワールも、オペラ座とかカフェ・コンセールなどを描いていた70年代から、80年代になるとパリから遠く離れた自然の風景や神話的な風景をモチーフにすることが多くなります。セザンヌは最初からあまり都会的なモチーフを選ぶ画家ではありませんでしたが、それでも70年代にはパリ郊外の風景をたくさん描いていたのに、80年代以降は故郷のエクス=アン=プロヴァンスにいることが多くなり、モチーフもサント=ヴィクトワール山をはじめ、周囲の風景や静物が中心になっていきます。次の世代であるゴーギャンやゴッホがデビューするのが80年代ですが、彼らは中心部にあまり興味がありませんでした。ゴッホはアルルなど南仏の風景を描き、ゴーギャンはフランスすら離れてタヒチへ向かいます。このように近代性を象徴する場所を避ける傾向が出てくるのが80年代です。もちろん、全体的な傾向としてのパリ離れについては、経済的な要因、社会的な要因なども考えられますが、ここではあまり深入りしません。モネが例外的な存在ではなかった、ということを確認するに止めます。ただ、モネが他の画家たちのパリ離脱と共通しながらも「特殊な例」だというのは、彼がジヴェルニーに土地を購入し、その広大な土地に自ら庭を造成した、ということです。具体的には1883年にジヴェルニーに移住します。最初は賃貸でしたが、90年に屋敷と土地を購入。93年には隣接する土地も購入して庭の造成に取りかかります。

 ジヴェルニーは、今でもパリからバスで2時間くらいかかる田舎町で、モネが移り住んだときは人口二百数十人の小さな町だったと記憶しています。そこに土地を買い、庭を造成し、アトリエを作り、制作を始める。その背景には、モネ自身の経済事情の変化があるのは間違いありません。モネは90年代に入るとフランスを代表する画家としての地位を確立し、かなりの名声を得ています。絵も売れるので、経済状況も好転する。マルクス的な言い方をすると、こうした下部構造があって初めて土地の購入や庭の造成へと進むことができたのです。名声が確立し、フランスの伝統を代表する画家への期待が膨らんでくると、画家自身の意識の変化にもつながります。

 国民画家としての地位を占めるようになった90年代、モネはフランスを象徴する木として公式に認定された「ポプラ」をモチーフに選び、「ルーアン大聖堂」のような歴史的建造物を選び、「積みわら」のようなフランス農村部の典型的な風景を選ぶ。タッカーはこれを「国民画家的な期待と自覚の絡まり合いから出てきた」と考えています。そして第一次世界大戦が起こる1914年、モネが「柳」をモチーフに選んだのも、この戦争でフランス軍が200万人近い人命を失ったことと結びつけて考えることができると言います。柳がフランスに輸入されたのは18世紀以降だと思いますが、その姿は、女性が立つ柔らかくたおやかな身体と比較して語られます。涙を流して悲しんでいる木だと言われ、詩にも歌われ、当時は墓にも植えられました。モネはそれを意識して、第一次大戦の最中に、睡蓮と並んで柳のモチーフを選んだのではないか、とタッカーは示唆するわけです。

 オランジュリー美術館の《睡蓮》のプロジェクトは、第一次世界大戦の時期から始まりますが、当時の状況を考えると、社会全体として物資が不足している中で、あれだけ大きなキャンヴァス、巨大な画面を覆う量の絵具を確保することは、並大抵のことではありません。モネにはそれを可能にする十分な経済力があった、ということです。そして、あの大画面は国家に寄贈することを前提として始められました。随分長い時間を費やし、結局モネは死ぬまで手放さなかったわけですが、国家に寄贈するために描いてくれ、という依頼があったのは確かです。それを考えると、しだれ柳と死者のモチーフはどこかで重なる。それが研究者の主張です。

 オランジュリー美術館がオープンするのは1927〜28年、モネの死後1~2年たってからのことです。そしてそれ以後、モネはほとんど美術史上から忘れ去られてしまいます。30〜40年代、モネは終わった画家だと思われ、オランジュリーを訪れる人はほとんどいなくなります。とりわけフランスでは忘れられ、オランジュリーは廃墟のような状態になっていました。オランジュリーを潰そうという話もあったくらい、寂れていたそうです。

 第一次大戦と第二次大戦の間にあたるこの時期、フランスの美術界では秩序への復帰、かっちりとした抽象画や構築的な絵画が時代の気分に合うものとして採用されていました。つまり、モネのような曖昧模糊とした絵を描く人は時代遅れだとされ、見向きもされなかったのです。それが、戦後になって逆転します。第二次大戦後の50年代、アメリカの若い画家たち、とりわけ兵役に行ってそのままヨーロッパに残った人たちがオランジュリーを訪れ、感銘を受けたのです。今回出展している米国の女流画家、ジョアン・ミッチェルなどがオランジュリーを訪れて新しい刺激を受け、「これこそ我々がもう一度再興すべき、見直すべき絵画である」と喧伝をはじめます。他にも、アメリカの美術評論家、クレメント・グリーンバーグが、モネの最晩年の大画面の作品をアメリカで擁立される新しい絵画の流れと比して、その先駆的なものとして評価し始めます。ジャクソン・ポロック、モーリス・ルイスなど大画面で抽象画を展開する画家たちの先駆的な存在として、モネの晩年の睡蓮の絵画を見直すことが可能ではないか、というわけです。そういう流れを受けてMoMA(ニューヨーク近代美術館)が、1955年にモネの巨大な睡蓮の絵画を買い付けます。その時購入したものは焼失してしまったので、現在MoMAが所蔵しているのは後に再度購入したものです。

 モネは、彼が亡くなる頃には「終わった画家」だと見られ、とくにフランスの中ではかなり否定的に捉えられ、オランジュリー美術館はほとんど忘れられていました。それが、戦後アメリカの評論家に再評価されて美術史の表面に浮かび上がります。今度は抽象表現主義との関係の中で、大画面やオールオーバーの構造などが評価されたのです。そして次には、ポール・タッカーのように「主題に意味があったのではないか」という話も出るなど、どんどん《睡蓮》の見方が変わっていく。まさに複数の重心の間を移動しながら、らせん状に重層を作っていったのです。

 私自身が関心を持っているのは、他の画家のパリ離脱と違って、モネは自分自身がデザインした環境の中へ移住した、ということです。その中で絵を描くと同時に、絵画が成長する培地として、環境自体にどこまでも手を加えていった、という事実です。他の画家には経済的にその余裕がなかったけれど、モネは土地を買ってデザインし、自分が移住し、自分が育てた庭をモチーフに絵を描いていった。それが非常に気になるところです。

 90年代以降、睡蓮、水、池に架かる日本風の橋など、ジヴェルニーの庭をモチーフにした作品群が次々と生み出されます。ずっと庭の中に居続けている、と言ったほうがいいくらいです。庭自体にも次々と手を加え、植物の自律的な成長や自然条件の様々な変化をも含み組み込みながら、ある意味、庭自体も作品のように変化させていきました。モネがジヴェルニーの庭を描くという行為は、ただ自然を写すということでは捉えきれない、ある種の自己言及性とでも言っていいところがあると思います。

 セザンヌでいえば、非常に複雑な構成を持った静物を描くときに、テーブル上に絵画的なビジョンを持って事物の配置を決定し、それを画面上に写し取り、微分的に配置を変えていく、そういう画面とモチーフの相乗的な関係にも似ています。庭は予め与えられたものとして最初からそこに存在していたわけではなく、むしろ庭の造成そのものが絵画的ビジョンを実現するために制作された側面がある、と言っていいと思います。

 同時に、セザンヌの静物とは異なり、植物、空、水というような、絶えず自律的に変化する様子を含み込むことで、その庭は予測不能な持続的変化をも含み込みます。絵画的な種としてまかれ、多様で異質な成分との関係を作りながら生成していく場所。それが彼にとっての庭であり、その生成のドラマを目撃し、キャンヴァス上の絵画の養分として取り込み、新しいビジョンを平面上に育てていく。そのような循環的な運動が産出されるのがモネの絵画なのです。最初から絵画の生成という自己目的的な運動の展開過程として、庭も絵画も存在しています。絵画にしても植物にしても、自分自身が成長するために存在し、その運動の展開過程を内包しているのです。

 ロス・キングが著したモネの伝記の中に、モネが睡蓮を使って庭を造成するようになったきっかけについて書いた一節があります。

 最初の睡蓮は、ボルドー近郊で園芸店を営む(…)ジョゼフ・ボーリー・ラトゥール=マーリアックの好意で、1894年に導入された。ラトゥール=マーリアックは、(…)ヨーロッパで最初の発芽可能な色彩のある睡蓮をつくった。彼はこれらの異国の栽培品種を、黄色、青、そしてピンクの色調で、1889年のパリ万博でエッフェル塔からセーヌ川を渡ったトロカデロの庭園に展示して世界に示した。これらの華麗な新しい交配種の光景はモネを刺激した。彼は、庭をつくりたいと思った。彼は「目を楽しませるために」と書いているが、トロカデロで睡蓮をひと目見た時から「絵のモチーフ」にしたかったのだ。

——ロス・キング『クロード・モネ:狂気の眼と「睡蓮」の秘密』、長井那智子訳、亜紀書房、2018年、pp. 34-35.

 

 注意していただきたいのは、様々な色彩のある睡蓮の花がヨーロッパで入手可能になったのは、モネがジヴェルニーの造成を始める直前だったということです。しかもその睡蓮は、ラトゥール=マーリアックによって人工的に作られた新種です。モネは、この色の単位としての花をモチーフにしたいと考えた。このことから、モネは最初から絵画的なビジョンに従って庭そのものを計画した、ということがわかります。植物の成長はそれ自体自律的で、自らの生以外に外在的な目的を持たないものですが、絵画もまたしかり。それ自体完成予想図を持ちません。これまでの生の積み重ねによってのみ、未来へ押し進められるように成長できるのです。

 モネは繰り返し睡蓮を描きましたが、これは機械的な反復ではありません。それは、同じ位置、同じ時刻に戻ったとしても、二度と同じ睡蓮を見ることができないのと同じことです。それまでのすべての記憶を統合し、物質的な存在としてその記憶を現在進行形の知覚の中に統合し、現実化していく作業の繰り返し。それは生が続く限り終わることのないプロセスです。今現在見ている睡蓮があるとしても、それはこれまで見てきた睡蓮や様々な記憶が融合し、一体となって現在時の知覚と統合された状態として睡蓮を見ているので、明日になれば違う睡蓮が見えます。反復であっても必ず差異が生じており、現在地はどんどん積み上げられていくものなのです。

 この知覚と記憶の統合というのは、非常に面白い問題です。今回の展示作品の中でいえば、岡﨑乾二郎さんの2枚の絵。モネとは全く違った意味ですが、現在時の知覚と記憶が緊張状態に置かれるような鑑賞経験をもたらします。左右の2枚のキャンヴァスには、ほとんど同じモチーフが登場します。今見ている自分の知覚は、直前に見たもう1枚のキャンヴァスの部分的記憶と相まった知覚として構成される。1枚の絵の自立性が脅かされているわけです。にもかかわらず、その1枚の絵は1枚の絵として、不連続の運動を含みこんだ連続体としてあり続ける。その知覚と記憶、統合されてばらばらにされ、また統合されるといった経験が、岡﨑さんのキャンヴァスの前に立つ経験だと思います。

 モネの睡蓮にも、これに似た反復があると思います。モネは1911年に妻のアリスを亡くしますが、そのアリスに送った手紙の中で「すべては変化する。石でさえも」と言っています。「すべては変化する」という感想は、光の状態によって変化するというだけではありません。ことに晩年の睡蓮の連作を見ていると、そんな風に感じます。それは、水や植物などに典型的に見て取れますが、おそらく森羅万象に敷衍可能な存在自体の持続的変化ではないでしょうか。その中には当然、画家自体の身体の変化も含まれるし、あるいは様々な存在者が互いに媒介しあって生じる飛躍や切断も含む存在の織物全体といった次元にも関わっているかもしれない。

 こちらの《睡蓮》(当日はスライドで図版を紹介)は、モネの晩年、視力が落ちてきた頃の、あるいは未完成かもしれない混沌とした作品です。単に光の状態が変化していくだけでなく、水という媒質、色彩となった空気、さらに水の底から透過してくる光、そのすべてを含み込んで異質なものが集まる交差点のように感じられます。タッカーが言うように「柳は死者との交信を可能にするモチーフ」だったとすると、それは存在そのものの中に溶け込んでいる死者、あるいは現在の知覚に寄り添うことを可能にしている死者であり、それらを社会的な記号として扱おうとしているのではないと思われます。

 こちらの《しだれ柳》(当日はスライドで図版を紹介)は晩年にしだれ柳を描いた作品です。モネ自身がこれを完成作と思っていたかどうかはわかりませんが、この作品に死者への思いがあるとしたら、それは単に哀悼を表象しているということではなく、死者の思い出が記憶の積み重ねとして現在の知覚の中に溶け込んでいる、あるいはそういうものが現実をこのように見させているという意味での死者、現在の知覚を支えているものとしての死者、になるのだと思います。

 私はモネと同時代のアンリ・ベルクソンという哲学者のことを思っています。とりわけ、彼が言った「持続」というものについてです。私たちの生、絶えず流れ続けている現在としての、持続としての生、それだけを実在と考えている人です。彼は、「直観」を通じてそれを捉え直そうとします。彼にとって過去や未来は実在せず、過去はすでになくなってしまったものです。我々は時間を空間的に表象する、たとえばカレンダーや時計のように空間的に時間を投影することで、過去があったかのような、あるいは未来があるかのように語ります。けれど、実際に我々にあるのは現在だけです。ベルクソンは、実際にある実在としての「現在」に焦点を当てると世界がどのように見え、生きていけるのかを考えた哲学者です。

 だとすると、現在は絶えず過去の記憶の積み重ねによって押し上げられて、押し進められていく持続というほかないものです。空間的に表象された時間からいうと、「いつまでに何かをしなければいけない」という外在的な目的に向かって進んで行く時間だと思われるかもしれませんが、実際にあるのは現在だけであって、その現在には必ず予測不能性が含まれています。ベルクソンの考える「自由」というのは、この予測不能性と深くかかわっています。

 そんな実在する現在時をもう一度体感させてくれるのが芸術家、絵画を描く人です。モネのような人は典型的な例と言えるかもしれないし、日々現在時を生きている植物のような存在かもしれません。反対から言うと、持続を感じるには「直観」が必要です。ただ「直観」という言葉は誤解を招きやすいのでなかなか難しい。ベルクソンを解釈したジル・ドゥルーズは「実は、直観というのは私たちに自然に与えられるものではない。批判的かつ自覚的に捉えなければならない態度だ」と言っています。つまりよほど注意して感覚を研ぎ澄ませないと「現実の実在としての持続」を思考することはできないのです。つまり「直観」というのは、自然に我々が「あ、そうだな」と思うことではなく、むしろ批判的な方法だということ。生の実感を取り逃がさないためには、空間的に表象された時間をカッコに入れて、いかに我々がイリュージョンに従って動いているかを、もう一度解体し直さなければいけないのです。

 俗っぽく言えば、私たちの現在というのは、あらかじめ指定された目標に向かって進んでいるようだけれども、それは絶対のことではなく、それまでの記憶に従って推進されているものです。このため、突然、その設定されたかに見えるコースから逸脱することだってありえるし、そんな不確定性を常に孕んでいる現在的な進行だといえます。

 分かりやすい例で言うなら「愛」という情動。恋愛をした時、人は愛の情動に従って「やらなければならないこと」を全て捨てて旅に出ることもあります。あるいは、重要なプロジェクトを任されているにもかかわらず、突然会社を辞めてしまうことも可能です。それがいいということではありませんが、ベルクソンの言う「自由」は、我々の生の中に潜在的な選択肢として含まれている、ということです。その自由の現実性を考えることが「直観」ということになります。

 そう考えると、芸術という生産行為は、生の不確定性と、不確定性ゆえに与えられている自由を、最も純粋な形で私たちに感受させてくれる行為と言っていいかもしれません。なぜなら、芸術には自己以外に目的がなく、外形的に与えられた目的が芸術という行為を動機づけることもないからです。

 モネ自身は、晩年に至っても自分の画業に完全に満足することはありませんでした。完全に満足するということは、自らが描く「生」がそれまでの自分の行為の記憶に押し上げられながら絶えず変遷する以上、構造上ありえないわけで、そのこと自体はむしろ自然なことというべきかもしれません。その不満足、自分はダメだと言い続けるのが画家なのです。不満足というものは、挫折とか失敗と捉えるべきではないこともまた明らかです。その反復は、それ自体、生成の力の積分のようなものであって、見るものの現在の中で絶えず生き直される持続の舞台、といえるでしょう。

 《睡蓮》の連作においては、水平線がなくなり、画面全体が睡蓮によって覆われることが基本的な事態です。これはすでに多くの人が指摘していることですが、モネが睡蓮の池を描いた作品は多くの場合、水面を見下ろすような形になっています。従来は水平線が画面の上端にあり、遠近法的な奥行きを示唆する空間構成になっていたのが、水平線が消えて水面のみが見えるようになっている。それが最後のオランジュリーの大画面の絵画まで繋がっていきます。

 ある意味、色彩の広がりによって覆われる世界へと沈潜してゆく「画家の眼差し」を象徴すると同時に、色彩が空気を通過して水の表面に撥ね返され、あるいは水面の下からもやってくる光を混交させて刻一刻と変容していく。それは、これ以上ないほど不確定な要素に目を同期させようとしているかのようです。

 水面に漂う睡蓮によって、水面の存在はかろうじて半透明なものとして示唆されますが、同時に、水面は世界の光を受け止め、透過させ、反射させることによってイメージを結晶させる。色彩という現象は光だけでなく、空気と水、植物など物質的な組成を交えた異質なものの連動体です。モネが描きたかったのは、その異質な複数の要素がせめぎあって刻々とそのバランスを変化させていくことに呼応した現象であり、その現象にじっと目を凝らす画家の姿が立ち上がってきます。

 画面内に地平線や水平線があって、奥行きがある場合には、そこに必ず想像的な行動の可能性が生じます。すなわち、散歩、船を使った移動など、なんらかの想像上の行動を生じる余地があるものです。けれど奥行きが消去された空間は、ただ知覚の持続的な変容へと身をまかせた凝視の空間になります。ある行為に伴う空間的な時間性が発生することを妨げて、見るものを純粋な知覚の持続へと構成しなおす「場」として、絵画が作られるのです。

 いま「場」と言いましたが、画面サイズの巨大化はその感覚をさらに増幅します。オランジュリーの壁画群は彼の死後設置されたものですが、彼が死んだ時にはそのプランはほぼ完成していました。この絵画群はもともと大装飾画として構成されたもので、19世紀まで続いてきた壁画というメディアの伝統に棹さすものとして描かれたものです。多くの壁画は、その中に英雄のイメージや歴史的な出来事を描き、公共の記憶として転換するための神話的な装置として計画されます。これに対してモネの絵画群は、従来の文学的な読解を拒絶するかのように、睡蓮が浮かぶ池の描写で全面が埋め尽くされている。柳や睡蓮、水面のような抽象的なイメージで描写できる要素のほかに、なんの社会的言及性のないモチーフで埋め尽くされているのです。タッカーが言うように「柳と死者」といった連想は可能かもしれませんが、そんな連想をわざわざ掘り起こさなければいけないほど、モネの絵はそれまでの歴史や伝統からみて不明瞭な描き方しかされていないのです。

 柳が描かれていない場面もたくさんありますが、それは社会に共有されるべき神話的な出来事を物語的に描き出すのではなく、むしろ言語化の契機を奪い、言語以前の次元で多様な質を展開する知覚のドラマが成立する場として構成されています。その画面サイズは、作品として全体を一挙に把握することを拒否しています。必然的に横に移動したり、接近したり、離れたり、持続的かつ時間をかけた運動を促すようにできているのです。

 今回の展示でも、大画面の前に立つと、自然と近寄ったり離れたり、我々の身体の運動を促されます。持続的な時間の中で見ることに集中する構造が、その大きさによって可能になっているのでしょう。モネが、水面をじっと見つめながら、その変容する持続から画面を生成していったように、今度は我々見るものが、それぞれの現在の中で、画面からやってくる知覚刺激を経験することになります。その経験は、今見た画面の印象が即座に過去になってしまい、その印象が次にやってくる画面の現在的な印象に息を吹き込む。あるいはちょっとした変調が直前まで見ていた色彩の感覚を再帰的に変容させてゆくような、不思議な経験です。

 ベルクソンは、持続の概念を説明するときに、メロディの経験を持ち出して説明します。音楽というのは、聞いているときにある瞬間の音だけを切り出して聞くことはできない。どの瞬間もそれまでのメロディの流れの残響と一体となって印象を形作っている。つまり、現在時には常にそれまでの経験が溶け込んでいて、それが現在の印象を形成する。

 実際には、音楽はハーモニー、リズム、突然の切断などの可能性も含み込んだ多様体として展開しているわけで、ベルクソンの比喩は単純すぎるかもしれません。モネの絵画を見る経験も、必然的に時間的な展開の中で、いわば知覚の音楽化とでもいうべき事態が発生します。その音楽は、ただ心地よいだけではなく、見ているうちにこちらの身体感覚をゆさぶり、不安定にすることで余韻のような感覚ももたらします。その感覚は、今回の展示でいうと中西夏之さんの絵画を見ている時に感じるような、不安でゆらゆらとした感覚。それは、オランジュリーに展示されたモネの絵画にも多分にあるものです。その意味で、目の経験だけではない全感覚的な組み替えというのは絶えず生じ、そのために一層見ることの現在性、対象化して過去のものへと片付けることのできない切迫性が持続します。

そのことをことさら感じさせてくれるのが、オランジュリーの2枚かもしれません。

 とりわけ雲が映り込み、柳が下から生えているような部分。不安定で組み替えの可能性を示唆し続ける絵画の体験です。これをうまく表現したアメリカの美術史家、レオ・スタインバーグの言葉を引用します。

あなたは絵画を、あるいはあなた自身を意のままに反転することができる。水平線に頬を寄せて横たわり、落ちてゆく雲の上に立ち上がり、水底に沈んだ空の上で睡蓮の葉とともに漂うことだってできる。だがそれは、白昼夢ではないのだ。どの部分をとっても真実なのだ。
——Leo Steinberg, “Monet’s Waterlilies,” Arts Magazine, February 1956, reprinted in Leo Steinberg, Other Criteria: Confrontations with Twentieth-Century Art, New York, 1972, pp. 235-239.

 さらに、プルースト『失われた時を求めて』の「スワン家のほうへ」から、少し長くなりますが、有名な睡蓮の描写を引用します。

もっと先へゆくと、川はある土地を横切ってゆったりと流れるようになる。そこは所有者の厚意で一般にも開放されていた。所有者はそこで水生植物の栽培を愉しみ、ヴィヴォンヌ川からできるいくつもの小さな池を、文字通り花開く睡蓮の園にしていた。このあたりの両岸は木がたくさん茂っていたから、木々が大きな影を落とすところでは、水の底はいつもは暗い緑色に見えていたが、午後に降った雷雨が止んですっかり晴れた夕方に戻ってくるときなどは、日本趣味の有線七宝のように、紫がかった明るい鮮やかな青に染まっているのがわかった。水面のあちこちに、中心は深紅で周辺が白い睡蓮の花が一輪ずつ苺のように赤く際立っている。少し向こうでは花は数が多くなり、色がもっと薄くなる。なめらかな感じを失い、ざらざらとして襞が増え、偶然ではあろうが、それはそれは優雅な渦巻のようになっているので、あたかも、艶なる宴のために物憂げに摘んで編んだモスローズの花飾りがほどけて、下に落ちた花びらが水面を漂っているようにも見えた。そこから目を移すと、同じ睡蓮の仲間が、家庭で慎重に洗われた陶磁器にも譬えられる花大根の小綺麗な白と薔薇色を見せている一方で、もうすこし遠くの睡蓮は密集して咲き、水に浮く細長い花壇の様相を呈していたが、それはまるで庭のパンジーが蝶々さながら青みがかった艶のある翅を、水の花壇の透明な斜面に休めに来ているかのように思われた。それはまた、空の花壇と言ってもよかった。その花壇は、花の色以上に貴重で感動的な色合いをした土壌を花に与えていたからである。さらに言えば、午後の間、睡蓮の下で、優しく寡黙でゆらゆら動く幸福の万華鏡をきらきら輝かせるにしろ、あるいは、夕方近くなって——ほかの花に比べればたしかにはっきりした色調をもつ花冠のまわりで、その時間にはもっとも深く、もっともはかなく、もっとも神秘的で、しかも永遠なるものとつねに調和するように、絶えず変化しながら——まるで遠くの港のごとく、夕陽の薔薇色と夢想の色に満たされるにしろ、その花壇は大空に睡蓮の花を咲かせたように見えたのだ。

——マルセル・プルースト『失われた時を求めて(1)』、高遠弘美訳、光文社古典新訳文庫、2010 o r 2011、PP396―398.

 

 この美しい一節がモネの絵画を見て書かれたことは疑う余地がなく、そのままモネの絵を見る経験の記述としても成立しています。実際、プルーストは1909年にモネの展覧会を見ており、著書の中でも何度もモネに言及しています。見ているうちに連想が起動して、現実の世界なのに天地が逆さまになり、空と大地が交差する。睡蓮の花はその間に薄膜として存在する水面に、ほとんど非現実的な夢のように現れ、その色彩は忘れていた記憶を刺激し、次々と現在進行形の知覚の中に流れ込ませてくる。水面はその意味で空と大地だけではなく、睡蓮を支える物質的基底でありながら光を通過、あるいは反射させ、時間とともにその現れを変え、かつ、現在時と記憶との間を通底させるスクリーンとして存在する。

 それは「表面」として厳然としてそこに存在しながら、反転、拡張、変容の可能性を「深さ」として潜在させている絵画そのもののはたらきを反復しているように見えます。

終わり

 

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